「星野のパン」で育った俺は
「団塊の世代」が生まれたころを「ベビーブーム」という人がいる。
「ブーム」で赤ちゃんを産むかね~
「敗戦っ子」と呼んでくれ。「ベビー」などと呼んでほしくない。
1947年(昭和22年)生まれ「267万8792人」
1948年(昭和23年)生まれ「268万1624人」
1949年(昭和24年)生まれ「269万6638人」
(2023年生まれ「72万7277人」のおよそ3.5倍)
「敗戦っ子」激増のために品川区立戸越台中学校が昭和34年4月1日創立。
姉が3年生の時に俺が入学した。
昼になると売店にパン屋が2店舗ならんだ。
「星野」のパンは柔らかくて美味しかった。
「星野」に群がる人々をかき分けて、ポテトサンドを拾い、
「おばさん、これ!」と代金を渡した。
戸越台中学の思い出は「星野」のパン。
あの頃の「星野」の店主は、この二代目の親父(初代)さんか?
昭和28年創業の「ベーカリーホシノ」、
あの頃は「ベーカリー」なんていってなかった?
俺の母校「品川区立戸越台中」は、各学年「3クラス」。
「敗戦っ子」の俺の頃は、A組からH組まで「8クラス」あった。
1クラス55名。教室はギューギュー詰めだった。
俺はG組、出席番号「8番」。
中間テスト・期末テストの成績「上位100名」の名前が廊下に張り出された。
高校受験を意識した中学2年後半から「80位」~「40位」まで頑張ったな。
クラスで「7番」の成績だったと記憶している。
それでも都立の「普通高校」は無理、しかたなく「商業高校」に進学した。
4畳半5人暮らしの貧困層だったが、
「成田悠輔」や「西村博之」のようなレイシストにならずに育った。
ひょっとしたら、「星野のパン」のおかげかもしれない。
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