「星野のパン」で育った俺は

ゴーヤー茶.

2025年01月22日 09:55


「団塊の世代」が生まれたころを「ベビーブーム」という人がいる。

「ブーム」で赤ちゃんを産むかね~

敗戦っ子」と呼んでくれ。「ベビー」などと呼んでほしくない。





1947年(昭和22年)生まれ「267万8792人」

1948年(昭和23年)生まれ「268万1624人」

1949年(昭和24年)生まれ「269万6638人」


(2023年生まれ「72万7277人」のおよそ3.5倍


「敗戦っ子」激増のために品川区立戸越台中学校が昭和34年4月1日創立。

姉が3年生の時に俺が入学した。




昼になると売店にパン屋が2店舗ならんだ。

「星野」のパンは柔らかくて美味しかった。

「中島」のパンはパサパサで人気がなかった。




「星野」に群がる人々をかき分けて、ポテトサンドを拾い、

「おばさん、これ!」と代金を渡した。




戸越台中学の思い出は「星野」のパン。


あの頃の「星野」の店主は、この二代目の親父(初代)さんか?


昭和28年創業の「ベーカリーホシノ」、

あの頃は「ベーカリー」なんていってなかった?





俺の母校「品川区立戸越台中」は、各学年「3クラス」。

「敗戦っ子」の俺の頃は、A組からH組まで「8クラス」あった。

1クラス55名。教室はギューギュー詰めだった。


俺はG組、出席番号「8番」。

中間テスト・期末テストの成績「上位100名」の名前が廊下に張り出された。

高校受験を意識した中学2年後半から「80位」~「40位」まで頑張ったな。


クラスで「7番」の成績だったと記憶している。

それでも都立の「普通高校」は無理、しかたなく「商業高校」に進学した。





4畳半5人暮らしの貧困層だったが、

「成田悠輔」や「西村博之」のようなレイシストにならずに育った。

ひょっとしたら、「星野のパン」のおかげかもしれない。





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