◇ エイサーの起源?

ゴーヤー茶.

2025年04月19日 10:10


 2012年2月16日の記事 ゴーヤー茶62歳 



先日、県立博物館の講座 『琉球と袋中上人』を聴きに行きました。

定員200人ですが、入り切れないほどの歴史好きが集まりました。

ブログにまとめるのに3時間かかってしまいました 





袋中上人が来る以前の古琉球時代
には、

盂蘭盆(うらぼん)と施餓鬼(せがき)の行事が行われていた記述があるそうです。

(1477年「李朝実録」)


「人形および鳥獣の形を作り・・黄金の仮面を著し、笛を吹き鼓を打ちて

・・その夜、おおいに雑戯を設け・・」





1609年-1611年 浄土僧袋中上人が琉球に滞在。


1713年「琉球国由来記」巻4「遊戯門」項、「琉球国旧記」、

「琉陽」によると、袋中上人が

「仏経文句を俗に和らげて、初めて那覇の人民に伝える。これ念仏の始まりなり。」



1713年「琉球国由来記」 玉城公事年忌

「7月13日夜、同16日まで、那覇の躍りあり。 太鼓・・・お施餓鬼あり・・・」



1729年「琉陽」 尚敬王

「7月盆中・・・歌絃・・・春太鼓・・奇巧のを点じ昼のごとし。

歌絃および春太鼓の戯は、王に非礼である 

禁止令が出てしまいました!



知名定寛先生の解説


「民衆は袋中上人がウチナーグチで分かりやすく伝えた念仏は、

芸能誤解され、続いたのではないか。

公行事としては禁止されても、庶民が中心となって行われたと考えられます。」


袋中上人が伝えた念仏が、

芸能と誤解されて続いたのですか~  




知名定寛先生によりますと、

このようにを被り、扇子を持って躍る姿も見られたようです。


1733年「那覇横目条目」

似せ念仏仕候儀、7月13日夜、同16日まで・・・ 

喧嘩・口論は申すまでもなく、絹布は用いず、蕉布・木綿とせよ


禁止令から4年後だというのに、また禁止令!?

成人式のニセーターの騒ぎは、この伝統を引き継いでいるのでしょうか 


1734年「琉陽」

「7月の間、人、似念仏してもって遊戯をいたす」



1758年「親見世日記」

「覆面に歌三味線し、人家に押し入るのは禁止する」

いよいよ「三線」が出てきましたね~ 


1768年「親見世日記」

「御奉行様那覇市において念仏ご見物の時、桟敷・・・念仏小屋・・・」

「御奉行様仲嶋、念仏ご見物・・・」



辻にエイサーはないよね~ 

1750年「沖縄芸能史話」

「覆面・・歌三味線し、人家に押し入るのは堅く禁止する」



1816年「伊江親方日々記」

「7月17日・・・今晩赤田似念仏行列・・・見物いたし候様・・・

 鑓長刀やりなぎなた弥彌みろく二才躍いたし候・・・」


ミルク? 赤田首里殿内! エイサーじゃないですね!



1821年「諸書附集」

似念仏の儀・・・禁止・・・」「唐・大和の躍りに真似することのないように・・・」

「エイサー」という言葉が登場したのは・・・


1906年「琉球新報」

「美里間切知花・西原両村の七月ヤンサー

呉来間切呉屋村の棒躍、中城間切島袋村のウシデーク・・が演じられた。」



1907年「琉球新報」

「大宜見村の海神祭である塩屋港内の爬竜船・・翌日の豊年踊りで、

二才共を先に押し立てて太鼓に調子を取って跳ね回り

七月エンサーやるなど賑やかである。」



「ヤンサー」「エンサー」→「エイサー」でしょうかね。

1900年「琉球新報」、「旧慣的諸興業」と題し、

「那覇首里の綱引きの時は・・

田舎の念仏(踊狂言を興業するのみにして仏教の趣味少しもなし)

・・腕力者を撰び念仏興業の時には役者めたきるものを撰んで・・」


旧来の慣習はけしからん! という論調ですね~。


知名定寛先生の結論によりますと、

エイサーは袋中上人が持ち込んだのではなく、

民衆が袋中上人が説いた念仏を芸能と誤解して続けたということです。


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