2006年06月20日

宮古島は大和に

沖縄はいよい梅雨明けですね。首里のマンションの倒壊が心配です。

 

「宮古の人民は貢納のため苦しんでおり、悪政から島民を救ってもらいたい」

「宮古島は元来自立の土地であった。用語といい先祖の由来といい大和に近く、

親国大和につくことを望んでいる」

1858年琉球王府時代末期、反体制の投書が那覇にある薩摩奉行所に届けられました。

文筆の才のある者が容疑者とされ、拷問による審問が繰り返され、首謀者とされた波平稽教は死刑、家族と共謀者は流罪に処せられました。



電球

それにしても宮古島は「用語、先祖の由来が大和に近い」とは、具体的にどのようなことを指すのでしょうか。好奇心の強い「ゴーヤー茶」は、宮古の歴史を調べてみました。



鉛筆

稲村賢敷は、12世紀頃から宮古に頻繁に往来し、多くの文物をとともに住み着いた人びについて、倭寇(わこう)であろうと考察しています。

大和からやってきた人々というわけです。下地馨は、宮古に住み着いた人々は、倭寇ではなく、宮古人の祖先であると考えています。


宮古の人びとが沖縄本島の王権と直接交渉を持ったのは14世紀末と言われています。それ以前の14世紀半ば頃の宮古は、群雄割拠の争乱時代でした。

この頃宮古には「日本や沖縄諸島から多数の渡来人が入り込んで社会的大変動の原因をなしていたといわれます。


争乱に明け暮れる宮古を秩序ある平和な土地にするには、大国の徳化が必要だと考えた真佐久という人物は中山王察度に会った時、言葉が通じなかったために、察度王は若者20人を選んで「琉語」を学ばせました。

足掛け3年にしてようやく言葉が通ずるようになっといいます。宮古の言葉は、独自の発展を遂げていたようです。


中本正智著『図説琉球語辞典』によれば、宮古の言葉には琉球王朝語(首里語)が成立する以前の古い語が多く残り、独自性の強い言語であるといいます。


果たして、「宮古島は用語といい先祖の由来といい大和に近いといえるのでしょうか。まだまだ勉強不足でした。

  


Posted by ゴーヤー茶. at 11:43Comments(2)ありんくりん